かんがえることが人生(仮)

理系学部卒→社会人で心理学(通信大学)。つらつらと書きます。

2021/1/12 平凡=幸せな人生

最近、5〜10年後の未来のことを考えるようになった。

自分の理想とかなりたい姿とか目標とかではなく、地に足ついてるであろう「今よりも歳をとった若くない自分」を想像する。

 

小さい頃から、想像できる【大人になった未来の自分】は、28歳が限度だった。本を読んだり周りの大人を見ても、なぜか28歳より先の未来が見えなかった。自己啓発に手を出すようになっても、明確に未来が手の中に感じられる感覚は掴めなかった。今でもその感覚はない。

ただ、理解できた感覚は掴めなくても、実際に自分の身に起こっていることと、知識として知っていたことがだんだん結び付いてくる。

なんか前よりも手のシワが目立つような気がするなとか。お腹周りの肉が全然落ちないなとか。1日何もなかった、ということが平和であるとしみじみ思うこととか。

なるほど。これが、若くなくなるってことか、と思うことが増える。

 

小学2年生から高校生の時の夢は、ガチで宇宙飛行士になることだった。

私にとっての夢とは、非凡であるということとイコールだった。

誰かと普通に結婚して、子供を産んで...ということが嫌だと思ったことはなかったが、

当時、心のどこかで「平凡なまま生きるのは嫌だ」とすごく思っていて、家庭を築くイコール平凡に生きる、というイメージがあった。宇宙飛行士は、私の中で最も非凡な職業だった。

 

非凡で目立ちたいというありがちな幼少期から、

3.11と大学生活を経て、他人のために人生使ってナンボという思考回路に変わり、

心理学と傾聴と起業関連の話題に5年間のめり込んで、

現在、私は、紆余曲折を経て、ただ毎日を普通に生きてる。

コロナで会えない家族にまめに連絡を取り、仲の良い友達とも糸を切らさないように連絡をとって、飯作って食べて、テレワークで事務の仕事して、健康に生きてる。

 

強烈なまでに平凡であることの幸せを日々感じている。

昔の自分がこのことを知ったら、もしかしたら怒り出すだろうか。

 

 

 

非凡であり、何かに突出していたり社会的に成功することへの憧れは、自分を含めすべての人が多少持つものだということはひとまず置いておくとして、

私が本当に【非凡】であったなら、今の平穏に心安らいだのだろうか...と思う。

多分、心安らぐどころかイライラするだろう。今の生活にも、自分にも。

 

結論、私はぜんぜん特別でも非凡でもなんでもない。

ほんとうに、毎日携帯と漫画を欠かさず見ているだけの凡人。

 

ようやく気づいたのかお前はホント恥ずかしい奴だな、と思っている人は確実に昔の学友には一定数存在するんだろうが、

もし面と向かって知り合いにそう言われたら、たぶん、苦笑いを少し見せようかなという気持ちだけ少し湧いてくるだろう。

それで良い。

少しずつ、若くなくなっていって、無駄な行動や感情の高ぶりや間違いが減って、

ようやく、やらなくて良いことをすぐに止められる自信が出てきたから。

 

自分の10代のころが、感覚だけで上手くいって生きていた人生だったとしたら、

その感覚を失って苦しみぬいたのが20代前半で、

そして失った感覚を取り戻して、その大事な感覚をくまなく言語化して二度と無くさないようにひたすら努力した20代後半、というのが自己評価だろうか。

 

自分ではない人と、よく聞く数字と、目立つインフルエンサー

出来るだけ揺らされず、見失わず、

漫画読んで、飯つくったり、休んだり、友達といつまでも喋ったり、ふつうに家族がいたり、ただ遊んだり、そういう自分の幸せをずっと握りしめていよう。

もう二度と手放すまい。ずっと離さないでおこう。

 

平凡というのは、ちいさい時に思っていたよりもずっと幸せだった。

 

 

p.s. 

だらだら平穏に生きてる【自分】のふかーい意識の底に、

だいぶ小さくなって残っている「非凡への野心」と、

全ての人が自分の幸せを見つけて欲しいという「自分で描いた理想」が、

なんか上手い具合に合わさって、いつか芽を出してくんないかなーと最近思っている。

でも、寝ていたいなら、まだ寝ててもいいと思う。

 

放送大での心理学の勉強は、これは種なのか幸福なのかいまいちわかっていませんが、とりあえず続けています。

2020年 楽しいことのふりかえり

毎年毎年、何かしらの反省の記事を1年の終わりには書き残すようにしてるのだけど、今年は

「今の自分が好きなこと、今年ハマったこと」について書こうと思う。

 

 

棋士の活躍を見ること(見る将)& 詰将棋

将棋と詰将棋は、いままでも気まぐれに、

パズルを解いたりゲームをちょっとやるくらいの気軽さで年1~2回くらいやってたんですが、

今年は、棋士の活躍にとても興味を持ちました。

はい、そう、藤井聡太ブームにハマったんです! 

 

YouTubeに上がっているamebaTVの企画にハマり、藤井二冠の活躍に目を奪われ、豊島竜王対羽生九段の竜王戦七番勝負の結果に一喜一憂し、羽生九段の奥さんのTwitterフォローをして…と

いつのまにかミーハーになって、

そのうちに、藤井二冠や羽生九段以外の、

他の「棋士」の方の人間性や天才性にもとても興味がわいて、

書籍も読み始めたりしました。

渡辺名人の奥さんが出している【将棋の渡辺くん】、

先崎九段著の【うつ病九段】(この本は心理学履修中の身としてもかなりいろいろ勉強になった)。

面白かった。

 

 

今は毎日詰将棋の1~7手詰めを解いたり、将棋の戦法を覚えようとして

「対局を見て少しでも理解を深めたい」という気持ちを自分なりに楽しんでもいます。

ちなみに、現在の私の推しは軍曹(永瀬王座)。

 

きのう何食べた?】の再現 & 料理のレパートリー増やし

自炊をする、と言っても、

「オムライスだけ、ハンバーグだけ、カレーだけをつくる!」というレベルと、

「バランスを考えながら汁物と副菜も作る」のはかなり違う。

と、ずっと思っています。

私は一人暮らしを始めてからずっと前者だったのだけど、

汁物はともかく副菜ってどうやってレパートリー増やすかいまいちわからんなぁ…

と思っていたところで今年ハマったのが、

漫画【きのう何食べた?】でした。

 

 

漫画のストーリー自体は大学時代からずっと読むのを追っていて、料理のシーンは軽く読み飛ばしていたのだけれど、

お、思ってたより料理の再現がバツグンに楽…!

と衝撃を受けてから、

簡単な副菜やがっつり主菜も含め、もう10品近く再現しています。

シロさんがつくる料理はあまり買わない食材や調味料が少なく、手順も特別ではないものが多いのでとても再現がしやすい。

漫画自体のストーリーはここでは触れないけど、ストーリーもほんわかしたり考えさせるものがあったりしてこれも良い(漫画の素晴らしさについて書こうと思ったら記事1本書ける)。

あと、きのう何食べた?は2019年にドラマ化もされていて、来年には映画にもなる予定。

www.youtube.com

 

余談ですが、

個人的な今年のベスト副菜は、ピーマンのおかかポン酢和え。作るのが簡単なのにこんなに美味しくていいのか…?

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漫画の方のベスト再現飯は、87話のエビとアボカドのサラダ。

一口食べるごとにうめぇ!と叫んで、あげくのはてに自宅で出していいサラダのレベルを超えてる気がして、サラダの美味しさにちょっとひいた(笑)

誰かをもてなす時にもう一度作ろうと思う。

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ANN(オールナイトニッポン)& hiphop

知らない人に説明をまずすると、ANNとは、深夜に流れるラジオの番組。

私がANNを聞き始めたのは2016年の春。

なぜ覚えているのかというと、大学卒業あたりの時期が自分のメンタルが一番死んでいた時期だったから。

大学の研究室に行かなければいけなかった時間を除いて、眠れないことと気が変になってしまうほど考えを巡らせて苦しくなってしまう夜に、「自分はこの世に一人ではない」と感じさせてくれたのがANNでした。苦しすぎた夜は、ANNをスマホで流して、枕の横に置いて眠る日々。

今は夜ふつうに眠れるので、タイムフリーという機能を使ってANNは昼間の時間に聞いています。

 

ANNは深夜放送という特徴上、「知ってる人だけ知ってる」という暗黙の了解みたいなものがあるので、ここで詳細を書くつもりはありません。書くこと自体がヤボ、というかなんというか。ただ、まちがいなく私はANNが好きなので、「大事で、好きなもの」として書き残してはおきたい。

私が聞いているのは土曜1時からと、火曜3時からの方。この記事を読んでる人の中に同志がもしいたら…一緒にお酒のみたい(笑)

あと、hiphopになぜハマったのかというと、火曜3時からの方がhiphopアーティストだから。音楽っていいよね。DJの人すごい。こっちも詳細は書きません、というか書けない。ミーハーだからなのと、あとは、音楽は聴いてる側にとって理屈はいらんと、私は思うから。

 

コーヒーと紅茶

FaceBookつながりで知り合った方に、2年前ほどからスペシャリティコーヒーを出す店に時々連れて行ってもらっています。

しかし私は学生時代までコーヒーが飲めず、社会人になってからようやくカフェラテを、しかも甘いのじゃないと飲めないような有様でした。

ブラックコーヒーといえば苦い、なんか濃い、何がおいしいのかわからんと思っているところに、

「コーヒーがフローラルとか柑橘系とかベリー系とかどういうこと?」「っていうかこのコーヒーすっぱくね?」「牛乳入ってないのつらい!」

とか内心思いながら連れてってくれた人にすこーし気を遣って飲んでいたのですが…

なぜか今年9月、初めて行った神保町GLITCHのコーヒーで、なぜか味覚が突然目覚めた(笑)

そこからコーヒーを美味しく飲めるようになりました。

www.instagram.com

体調によっては1杯分を飲みきることがつらく、

そして元から甘いのが好きなのでカフェラテもゴテゴテのクリームのっけた飲み物も好きですが、

「コーヒーのおいしさ」がわかり始めてからリラックスタイムの豊かさがなんだか変わりました。

風味を十分に感じようとして、うまくリラックスもできるようになったというか…。

フレーバーのある飲み物つながりで、最近は紅茶も好きになりました。

紅茶は自分で手軽に淹れられるので、紅茶を飲む頻度の方が多いのですが、

コーヒーは美味しいお店に行くとわくわくします。

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今年は、そして来年は

2020年は誰にとっても、コロナのせいで激動の年だったと思いますが、

私の一年は、幸福なことに、いつも通り、平穏に流れました。

 

なんとなく今年は、じぶんの1年のふりかえりは、私にとってのどうしようもなかったこと、理不尽なこと、失敗したこと、についてだけではなくて、

楽しかった記憶、モノについても、書き残すことにしました。

 

来年も、どうか穏やかに幸せに過ごせますように。

独白 世の中の全ての人を救うために考えたこと

たった1人を除いて、誰にも話さなかった自分の信念の話をしようと思う。

普段以上に訳の分からない文章になってると思いますが、どうか許してください。

この感情を、自分の外に出すことが、多分今の自分に必要だと思ったのです。

 

 

 


心理学を勉強して、フリーランスをやってみて、

どうしてカウンセラーをやってるの?

という問いに、私は今まで的を得た回答をしたことがないと思っている。


だって、言われた相手も大体困るでしょう。多分。

【地元福島で、3.11の時に、沢山の死や悲しみに衝撃を受けて、人間を救うのは心理学しかないと思ったから】

なんて答えは。

大抵の人は重すぎて、困ってしまうだろうから。

だから言わなかった。

 

 

 

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あの3.11で、18歳の春に、地元であの経験をした時、自分の今の人生は始まったのだと思う。

 


自分の目に見える範囲であるかどうかは関係なく、身近で沢山の人間が死ぬという経験をした時、人間は、

なぜ自分が死ななかったのかという理由を探し、

自分の心と人生の平安を保とうとして、【使命感】を抱くのだと思う。

 


初めに言っとくが、私自身は3.11で大した被害を受けていない。物理的にも、人間関係的にも。風評被害を何かしらの形で受けたこともあまり、ない。

ただし、精神的にはある種のトラウマを抱えている。そして自分と似たような人間は、探せばおそらくいるのだろうと思う。

3.11のあの日から、人間の死に悲しみ、世の中への不信感を抱えている人は。

 


あの日から、私は

自分の人生は自分のためではなく、他人のために使う必要がある

という使命を抱き続けている。

 


不思議なことに、心理学を学び始めて長年経つが、このトラウマと隣り合わせの感覚は癒されることをずっと拒否している。

それは私が未熟なのか、他の理由があるのかはわからない。

この経験を、考えを、おしゃべりな私が、本当に滅多なことでは、親しい友人にも話そうとしなかった。

うかつに言葉にして形にして、自分ではない人に勝手に解釈されることそのものを10年間拒否した。

他人から何を言われても、攻撃されたとしても、所詮は自分ではない人間のことだ、と割り切れる精神力を持てたと確信できる人格になるまで、決して迂闊にこの感情と感覚を外には出さなかった。

私にとって重要な過去の出来事であり、ある種のトラウマであり、そして信念であり、思想の根本になっていることは間違いない。

 

 

 

3.11で感じた私の苦しみを、悲しみを、

今も私は、誰にも理解されなくていい、1mmたりとも曲解されたくないと思って毎日を生きている。

この文章を世に放って、誰かに読まれたらその思惑は外れるけども。文章を他人に読まれるとは、自分の意図とは自然と外れるということだから。

 

 


私は3.11後に、工学系の学部がある理系大学に進学した。

エネルギー問題の救いの光を科学技術に求めて、そして(勝手に)失望してしまった。

精神的にまだ幼かった私は、科学は経済と金の個人の欲のためにしかないんだと大学を見て思った。

社会人になってからは心理学を勉強し始めた。

環境が、世の中が変化しないのなら、人間を救うのは心にアプローチする方法しかないと思ったのだ。

 


結果、心も、私が想像していたよりも思ったように救われるわけでは、現実的になかった。

不思議なことに、「誰に何が起ころうと不幸から全ての人を一様に守る方法」を探し続けると、

【幸せとは何か】【世の中はどんなルールがあるのか】ということに私は向き合うことになった。


そのため、私は

理系大を学部で卒業して、すぐに違う学問を始めて、かと思えばフリーランスとか言い出し、そして何やってるかわからない怪しい、

という側から見たら訳の分からない人間になった。


訳がわからない、と思われるであろうことに対して、これも、自分から話そうとはあまり思ってこなかった。

なぜかというと、【全ての人を救いたい】という思想を持っていたからだった。これが全ての行動の原動力だったからだ。


ちなみに、科学技術と心理・福祉の分野、そしてそれらに奉仕する多数の知り合い、友人達、全ての人のために、そして私個人として、

科学・心理・福祉に人生を捧げる方々を、下名が尊敬と敬愛の心を持っていることを、ここに明記する。

 

 

=====================

断言するが、

未熟な思想、人格の人間が持つ【全ての人を救う】という考えは危険だ。

それはなぜかと言うと、自分がトップとして、自分以外を洗脳するという思想とイコールだからだ。

 

 

心理学の勉強やカウンセリング、コーチングに興味を持ち試してみるにつれ、

自分は本気を出せば集団を洗脳できるのだと思うようになった(現実的な話、洗脳もそんなにうまくいかないが)。

 


洗脳がなぜ良くないか。

それは、「人はそれぞれ皆違うから」に他ならない。

そして、自分が進んでトップに立ち、自分基準の規律で世の中を作ろうとすると、集団が大きくなるにつれ、その人間は大抵狂っていく。

 


集団が小さいうちはいい。集団が「公」になるにつれ、おかしくなっていく。

漫画Death Noteのライトなんかが例えとしてわかりやすいかもしれない。


ひとまず、Death Noteほど深刻で大袈裟ではないにしろ、

「自分が正しい」と心から思い込んでいる人間が作り出した大きな思想は、悪意になることがある。と、私は思う。

 


自分の感情を、形のないものを、どのように出せば人のためになるか、悪意に形を変えることがないか、

道を踏み外さないように気をつけて歩こう、

と気をつけて、私はこの数年生きてきた。

どうしても人間として社会で生きている以上、他人を傷つけることはあり、自分の信念がとうとか関係なく傷つくことはたくさんあったか...

 

 

 

何もない人にとって人生はわかりやすく平凡である。

自分はハンディをかかえていると思っている人にとって人生は苦痛そのものであり、世の中は憎む対象である。

あるいは自分は特別であり、世の中は自分が変えねばならぬと思う対象である。

 


死んだ人を、悲しむ人を、慈しむことは大事なことだが、

悪事を叩くのは大事だが、

叩くべき悪意を見定める信念は必要だろう。

そして、その悪意が死んでもなお叩き続けるべきではないだろう。

死んだ悪意に対して、個人がとって然るべき態度は批判ではなく、己への反省だろう。

 


一個人は、公になるべきではない。

社会そのものになるべきではない。

生きている生身の人間は、宗教的な教祖になるへきではない。

 

 

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私のような、一歩間違えれば宗教的な思想家になりそうな人間がやるべきことは、

自分の思想を他人に押し付けることではなく、

小さいコミュニティがある今の社会で、

【そこのコミュニティにいてはいけない人】を他の場所に導くことなのかなと

さいきんおもう。

 


そのための役割を私が担えるのなら、

私に必要なことは「全てを肯定すること」だろう。

私が「全てを肯定」したいのなら、できることは「導くこと」であろう。

 


今、振り返ってわかることは

何も知らす、純粋で無垢な心のままに「全てを肯定する」ことは、ただ自分の心を壊し、たくさんの人間関係の不和を作る。

 


良い部分の裏返しは悪い部分である。

悪い部分は人間同士を傷つけることに涙しても、

「私は良い部分を見るようにしよう」と決める。

 


長所短所は裏返しである、と経験で裏打ちされた理解と葛藤をした後にする、

「良い部分を掬い上げる」は、つまり、

「その人の短所、悪意も愛する」ということと同義だ。

 


わたしは、

完璧になりたい、全てを知りたい、万能になりたいと常々思っている。

手から水がこぼれ落ちなければ良いと心の奥で本気で信じている。

自分が助けてあげようとした人が、全て元気になればいいのにと本当に思っている。

今まで相談を聴いた人、葛藤を聴いた人のことを忘れたことはない。

 


そして、どこかで同時に、偉くなりたいと思っている自分がいる。

言葉と技術を巧みに使えば、トップに立てるとわかっている。

自分の思想に賛同すれば他人は幸せになれるのではないかという傲慢な気持ちも心の隅にたまによぎる。

この思想そのものが危険だから表に出してはいけないという気持ちと、自分を尊重したいという気持ちがいつも葛藤する。

 


綱渡りのような気持ちで毎日を生きている。

 


自分を顧みず他人のために、という昔の向こう見ずな性格はだいぶ落ち着き、

自分と、ごく身近な人間関係を大事にする半年を送っている。

 


毎日平和だ。

平和で、身近な人は幸せで、

そして、少し離れた他人と知り合いを、私は今、見殺しにしている。

 


平和と、自分への絶望感に襲われて今日を生きている。

けれど、この自分の中の傲慢さを抱えたまま他人に奉仕はもうできない。

ある種の願いを込めて、この文章を書く。

 


私は、今以上傲慢になってはいけない。

12/11 日記

地球全体が幸せになれるシステムはなんだろう、っていう

ごく個人的に、私的に、人生かけて取り組もうとしてる問題がある。

いや、かつてあった。

 

誰もやらぬなら私がやる、という使命感に駆られ、

この問題を解決するにはどうしたらいいだろうと、


そのために人間の心の闇とかを、ものすごく見過ぎで、

 


人間はそれぞれ違っていて、すれ違いすぎていて、

それに対してできることは黙って傍から眺めていることだけなのかと

はっきり言うと、ここ数年諦めかけている。

 

ちなみに、この「問題」は私にとっては「みんなのために...」という思考プロセスが一応あったのだが、

その思考が非常に危険なもの、だという自覚がいつでも隅にあった。

 

だから、諦めて良いのかもしれない。

過去いろいろやってきたことはただ痛いヤツだと思われただけだろうし、誰の気にも(私が思ってる以上には)留めていないだろう。

そして私はまだ20代だ。もう十数年後に気づくのが遅かったら、もっと後悔したかもしれない。

 

今までやってきたことは後悔しない。

 

ただ、やってきたことは誰のためにもならず、ただ自分の内なる厨二病を治すためだけにあったのかと思うと、強烈にやるせない。

 

 

だが、
ふと、

「自分のことを大事にしたい」という(人によっては無意識にある)想いは

少なくとも万人が共通するはずだ、

と思って、

ここに個人的な私の人生の落とし所がある気が今、している。

現場叩き上げで相談愚痴聞きカウンセリングもどき事業やってた私が自己流でまとめた「嫌われないための話し方」

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先日、twitter

「嫌われたくない話し方ってなんなんだろう

というつぶやきを目にして、久々に考え込みました。 

 

 

私は昔、独学と実践で、そして今は通信大学で心理学を学んでいます。 

フリーランスとしてカウンセラーを名乗り(今はやってません)、悩み相談をきいていたときは

会話術を学んでいる、学びたい、身に付けたい、という人の悩みをよく聴いてました。

 

というわけで、今回は私が相談事業の過程で独自に身につけた「人に好かれる話し方」のテクニックをまとめました。

当時はあえてノウハウ本やセミナーに通ったりせず、完全に実践ベースでテクニックをまとめていったのですぐに試しやすいかとは思います。

精神論的な部分もありますがそこはご勘弁を。

 

 

テクニックを紹介する前に

えー、まずこの記事は、さっきも書いた通り

「普通に話しているだけなのに相手に嫌われちゃう」人向けの記事なわけですが、

鬱になりかけたことも、日常生活で急に発狂して30分間会話ができなくなり相手に引かれたことも、(軽度の)精神障害を持っていて15年間服薬をしている私にはよくわかる。

 

周りから全然嫌われてないむしろ優しい人と思われてるのに会話のちょっとしたことを気にしちゃう人もこの手の記事はたぶん読む。

読んじゃう。

 

というわけでそういう人を振り分けるためにまずこのテクニックから。

 

声のトーンを明るくする、ゆっくりにする

声のトーンが暗くて早口っていうのは、ベタですがなぜかそもそも印象が悪い。

明るくゆっくり話すのは、相手の安心感を引き出すことにも繋がります。

王道のテクニックですね。

(ちなみに私的には、暗くて早口な人はオタク気質で独自の世界観持った面白い人が多いので好きです。友達になりたい。) 

 

で、そんな無理やり明るく話せないよって思う人は話す相手をそもそも意図的に絞ってください。な人や苦手な人とわざわざ会話盛り上げる必要ないです。

仕事とかでどうしてもって時は無感情で話せばいいんです。

仕事ならお互い社会人なんだからお互い様。あなただけじゃなくて相手も悪い!

プライベートで嫌いな人と話してて会話が気まずいなって悩むときは、相手とじゃなく自分と対話する時間が必要なときです。

相手に嫌われないよりまず自分を嫌わないことの方が先。

 

はい、では特に自分嫌いじゃないしそんな悩んでないよ?という人は次へ。

(というかここで当てはまった人は下のことは大体わかると思う)

 

強い表現・断言・否定的にも取れる話題、言い回し、ワードそのものを避ける 

「これだけはたとえどれだけ仲が良くても触れてほしくない話題」って、ありますか?

ほじくりかえされたくない過去、

いやなことを思い出す言葉、

コンプレックスにふれる話題、

なんかわからんけど腹が立つなっていう某インフルエンサーやテレビタレントの発言、

ありませんか?

 

私たちが思ってる以上に、私たちにはそれぞれNGワードというものがあります。

仲がいいアイツにはあの話題は禁句だから触れないようにしとこ、とか

初対面の人や仕事場で失礼なことやふさわしくない話題や言葉遣いは避けよう、とかははわかる人多いかもしれませんが、

「強い否定を伴いやすいワードと言い回し」を日常的に使っちゃう人は探すとけっこういます。

全然・わからない・〜するわけがない・ダメ・絶対・やらない・私は~しない・興味ない・バカ・アホ・嫌い・死ぬ・~するのバカじゃない?

…etc.

いやそんなこと絶対するわけない

あんなこと普通の人だったらするわけないよね

バカじゃない?だから嫌いなんだよねw

 …etc.

 

これらは、解釈によって否定的に聞こえることがある言葉です。

人から好かれる話し方をしようとするときは、そもそも使うことそのものをNGにした方がいい言葉です。

もちろん、仲が良い相手や自分のキャラによっては全然使うワードでしょう。

でも、人当たりの良い人の話し方を観察すると、そもそも強い否定の意味を持つことがある言葉や言い回しを全く使ってないのです。

だから誰からも好かれる。マイナスの解釈をされないからです。 

インフルエンサーとか芸能人(それこそ●●エモンとかですね)などは、このワードをあえてたくさんチョイスして注目されるために使います。炎上商法ってやつですね。

 

少しでもやわらかく聞こえる言葉や表現に変える

「あなたの言いたいことを否定したいわけじゃないけど~」

 

...いや、

性格が繊細なタイプはこの前置き聞いただけでもう後の話を聞く気がなくなる。テンションが下がる。なんだったら会話を続ける気そのものがなくなる。下手したら以降会話そのものを避けられる。

 

自分の考えと違う相手に自分の考えを伝える場合、相手を気遣う言い回しを先に口に出すことは鉄則!

え?自分と相手はそもそも違うから気遣う必要なんてない?あぁ、じゃあ敵を作って自分と違う人には嫌われる人生を歩め。歳取るとそういう生き方は辛くなるぞ〜そういう人はたくさん見てきたぞ〜

...えー、気を取り直して。

 

例えば、コピーをとってほしいと相手に頼む場合、

「コピーをとって」

「コピーをとってくれない?」(語尾をやわらくする)

「ごめん、申し訳ないけど、これコピーとってくれる?」(ごめんを頭につける)

優しい上司だと思われるのは3番目です。

これは、

コピーをとってもらう→自分は動かず相手を動かす行為(上下関係が一瞬できている)→相手が自分より下になる行為なのでそのマイナスを補うための「ごめん」(自分を同じマイナスに下げる)です。高校で倫理とか取った人は勉強したことあるかも。

でもこれ難しいことではなく要するに「人にものを頼むときは一言謝ってから」ってやつです。

 

これを応用すると、

例)Aさん「大人になって野菜を食べないで肉だけでいいなんてあの人ありえない!」

(自分)でも野菜を食べて長生きするとは今の時代限らないしなぁ

そうですよね、あんまりあの歳だと周りにいませんよね。でも私こないだネットで野菜をがんばって食べても長生きしないって記事見たんですよ~」

 

これは、先に相槌で相手をほめる(同意する)ことで、自分が話したい話題の衝撃を和らげています。(野菜を食べて長生きするとは限らない→相手が反論するかもしれないため)

話題の衝撃を和らげ、そしてなるべくトゲのないワードを選びながら返事をしています。

 

ちなみに、相手を褒める相槌のさしすせそというものもありますが(さすが、知らなかった、すごい、センスあるね、そうなんだ、の頭文字)、

相手の発言に対して一言目でやんわりと返事をすること、

相手をまず肯定すること、

相手をとにかく褒めることは、

男性からモテる女性や、職業上女性相手が多い美容師さんなんかはこの重要性をめちゃめちゃ理解しています。

 

相手が言いたいことを話し終わるまで「黙る」

 

相手が話してる途中に口挟む人、周りにいますか?もしくは自分でやっちゃってますか?

 

それは、誰よりも自分の考えてることが絶対に正しいと無意識で思ってる人です。プライド高い人です。

 

そしてそれは会話の勘がいい人は絶対にわかる。そして嫌われる。

 

何を隠そう記事を書いてる私がまさにコレです(今でもたまにやってしまいます)。大学時代の友達よあんときはスマんかった。こういうときは、会話の割合そのものをコントロールするのがおすすめです。プライドが高いことは悪いことじゃないです。短所は長所でもあります。

 

具体的には「相手:自分=82」で喋る。

自分の口を閉じて相手が喋るように促して、自分は相槌を打つことに専念します。

 

これがなぜ良いかと言うと、

  1. 会話や議論の内容に関わらず、人間は根本的に自分の話を聞いてくれて肯定されたい生き物。相手の会話を優先して口を挟まず、上記の相槌だけを打つことで相手はかなりいい気分になる。
  2. 自分が話せる量が2割しかないから話せない、ではなく「2割にするなら簡潔に自分の言いたいことをまとめよう」とするようになる。嫌われる言い回しは大体長い。上記の項目守って、かつ短く話そうとすると大体は穏やかな話し方になり、1と合い重なって印象が格段に良くなる。

ついつい口挟んで自分が喋っちゃう、って人は1度ためしに、頑張って相手にだけ喋らせてみてください。周りの反応けっこうこれだけで変わります。

 

会話の流れでムッとさせたり怒らせたらまず『謝れ』

いや会話の流れで事故ったりうっかり地雷ワードをふんじゃったりすることは誰にでもありますが

プライドが高めの人にお伝えします。相手をイラっとさせたら間髪いれずに謝れ。言い訳すんな。誠心誠意謝れ。謝るタイミング逃したらあとで絶対時間作って謝れ。というか誠意を出さないと下手すると今後避けられる。「怒らせたら謝る」はほんと大事だよ。

 

さいごに

さらっと書くつもりがけっこうな大作になりました(汗

ここまで読んでくれた人ありがとうございます!

大事なのでもう一度言うと、これは「嫌われたくない話し方」を目指す場合の話です。

特に最後の謝るやつとか、自分にも譲れない信念やポリシーについて話している途中ならこの限りではないです。むしろ信念持ってる人で嫌われてもいいやって場面の時は謝らずガンガン喧嘩した方がいいです。謝る癖が一度付くと心が病むきっかけになりますので、注意してください。

 

なんかふつーに話してるだけなのに嫌われたりすんだよなぁ?なんでかなぁ?くらいのテンションの人だけ参考にしてください。以上。

自分の人生が幸せだと思う瞬間

言いたいことは言おうと決め、

無理はしないと決め、

等身大で生きようと決め、

進みがゆっくりでも先を見つめて進もうと決め、

決めたことはゆるぎないと信じられることが、どれだけ幸せか

 


...みたいなことをふと思ったが

これ抽象表現だなとかそれっぽいこと言ってんなみたいに理解してた時期が自分にも合った

これ読んでそう思う人もたぶんいるだろう

なので具体的に書くことにした

 

 

◯これから結婚する大事な親友に、本当に幸せになってねと恥ずかしがらずに言葉を惜しみなく使って伝えられる

◯何を言われても特に反論もしないし出来なかった両親に、自分が違うと思ったことは違うとはっきり言う

◯自分より早つめに死ぬかもしれない祖父母に言いたいことと感謝を今のうちに伝えきってかつ連絡をまめに取れる

◯お金の心配をしなくて良く、ほしいものを欲しい分だけ買っていきている実感がある

◯欲しいと思って買ったけどやっぱりいらないと思った物を容赦なくすぐ売ったり誰かにあげたりできる

◯やらなきゃいけない買い物や家事や仕事を期限に余裕をもって済ませられる安心感がいつもある

◯支払いや友達との予定を完璧に管理できている安心感がある

◯いざという時に自分の信念と大事な人のためにどうしても許せない人には言いたいことを全部言って戦える自信がある

◯たまに思い出す過去の悲しかったことや後悔したことを許せる今の自分に安心する

◯自分の身体と心の健康状態のすみずみまで気を配れて行動できる自分に安心する

◯他人のポジショントークに動揺することなく、仕事や将来像への行動計画のベクトルを常に軌道修正しながら自分流の最短を走り続けてる自信がある

 


未来の自分にとって今が最善の選択肢をとってるかどうかはわからないけど、

今までの自分にとって今の自分は間違いなく最善だ

未来のことはいつだって未確定で不安になったりすることもあるけど、

今が今までで最善であることは、

間違いなく未来の自分の自信を生む。

誰かに貶されてもそれでも私は文章を書きたい

今までの人生振り返って、

自分がどんな文章を、どんな日記を、どんな作文を、どんなブログ記事を買いてきたのか、

そしてこれからどんな記事を書こうとするのか、

を自問自答すると、

どんなに考えても「自分がロマンチストでナルシストだから記事を書きたくてしょうがない」という自己中な結論にならざるを得ない。

 

 

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世の中には「物事を深く考える人間」と「物事を大して考えたりしない人間」の2パターンがいるんだなということを、人生で初めて悟った時、

あぁ自分はとても楽な人生を歩んだ人間だったんだな、と思った。

あれは社会人一年目、社会に放り出されたばかりの時だった。 

 

私は昔から、何事も深く考えずにはいられない人間だった。

そして、周りの人間が全て自分と同じだと思い込めるほど、平和で恵まれた人生を送ってきた。送ってこられた。周りの人間関係、家族に、真綿に包まれるように守られて生きてきた。

 

大学生の就活時代に、私にとっての ”楽な人生” は、唐突に終わりを迎えた。

物事を深く考えない人は、どうやら、考えるのが好きな人より人生をイージーモードにしやすい。

頭が空っぽでノリが軽く、口が達者で、上司の言うことに疑問を持たずずっと笑顔でいられる人間が社会人として好まれ、良い会社に就職し、出世して、偉い立場の人間になっていくんだな、

そんな理想の社会人と真逆の自分は社会から見ると異物なんだな、と心から思った。

 

周りの友人、社会人が全て汚れて見えた。そして自分自身が、コーティング剤を塗られた真っ白な綺麗な壁のように思えた。 

「綺麗であること」「清廉潔白であること」はそれまで、良いことだと思ってきた。

しかし、私は明らかに社会の中で「異常」だった。

 

そんなわけで、

大学時代までの友人関係、そして就活を通して出会った大人の中に、本当の意味で「物事を深く考えること」を共有できる人間は、いなかった。

 

 

 

...なんだかわかりにくくて何を伝えたいか微妙な文章になってしまった。読んでくれた人、すみません。そしてありがとう。